(例1)
 
 相田佐和子先生、先生からいただきましたご恩に対し、深く感謝して、教え子を代表して一言述べさせていただきます。
 
 先生は、私たちが中学2年になった時、隣町の南中学から転勤されて、私たちの田川中学校に赴任されてきました。早速私たちのクラスの担任になられました。
 先生はまだ20代、長い髪を後ろで縛り、白いブラウスに紺のスカート、目がきりっとしてそのさわやかさは当時の腕白坊主の胸をしめつけるものがありました。
 大好きなのですが、不器用なため、悪戯という行動に出てしまいます。教室の入口に黒板消しを挟んで、ドアを開けると落ちる仕組みにしておいたり。でも、先生はひっかかりません。「こんなの何回も経験しているからひっかからないわよ」とさらっと言って授業を始められます。
 ある意味では叱られるのも期待のうちだった私たちはちょっとがっかりしたものです。
 女子生徒をからかう男子生徒がいると「そんな手のこんだことをしないで、好きなら優しくするものよ」と言ったり、女子生徒が足が痛いと泣くと「女子だから甘えていいなんてことないわよ」とさらりと言うのです。私たちは自然に「あーそうだな」と思ってしまったものです。新憲法が発布され、男女平等が唱えられたとはいっても、まだまだ意識が改善されていなかったときでしたが、先生の自然な言動が私たちに新しい意識を吹きこんでくださいました。
 
 8年前に長い教壇生活を去られましたが、3年前にお宅を訪れたときも、きれいな白髪になられたほかは当時と変わる様子がなく、すてきなおばあさまになられてました。「今の子供たちは悪い」と誰かが言うと、すかさず「あなたたちだって悪かったわよ」と返ってきて、「あー、先生は変わってない」と嬉しくなったものです。
 
 先生ありがとうございました。あの田川中学の2年間の教え、その後も帰省しては時々伺って教えていただいたこと、忘れることができません。心からのご冥福をお祈り申し上げます。
 
 学校の先生というのは、当時の若かった自分の時代を懐かしく思い起こすことにもなります。エピソードを生かして話すのが効果的ですし、その時の想いもよみがえってきます。

(例2)
 及川民雄先生、研究生を代表して追悼の言葉を述べさせていただきます。
 
 先生の研究室は私たち学生の溜まり場でした。講義やゼミのないときは、ついふらふらと顔を出してしまうのです。
 「先生、いつも若い女性に囲まれていいでしょ」と言うと「ばか言うな。我が家に帰っても家内に娘3人、大学でも女ばかり。わたしゃ女の奴隷だよ」とニコニコされていました。
 いつも顔を出すものですから、学生の感情の変化も鋭く見抜いて「オイ、サチ。おまえ失恋でもしたな?」とかすぐ見破られてしまいます。観察力がすごく細かいのです。先生を囲む場はときとして人生相談の場に早変わりしてしまいます。といっても、先生は私たちの話をじっと聞いているだけです。私たちも先生に話を聞いていただくと心が何故か落ち着くのです。話の終わりに「じゃ先生私こうします。いいんですね」と言うと、「バカ、俺は何も言ってないよ。でも、おまえが決めたんだからそれでやってみろよ。でも失敗したって俺の責任じゃねーぞ」が決まり文句でした。
 論文の課題を選ぶときもそうです。じっと話を聞いて、学生の関心の所在を探っているのです。自然に自分の一番関心事に取り組ませるように仕向けるのです。「関心のないことを学問したってしょうがあるまい」が口癖でした。
 でも厳しい先生でした。「自分の好きなことをしているんだったら徹底するんだ、妥協するな」とこれも口癖でした。ご自分にも厳しく、それはご著書によく現れています。
 
 学問の師だけでなく、人生の師でもあった及川先生、ありがとうございました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
 恩師の人となりを述べると共に、何が恩師から教えられたことなのか、受け継ごうとしていることをさらりと述べています。

 次に、先輩に捧げる弔辞を紹介します。
 
(例3)
 
山岡先輩、長く会社を休まれているとの便りはあったものの、先輩がまだ小さなお子さん二人を残して逝ってしまわれるとは想像もしておりませんでした。きっと回復され、また元気なお顔を拝見できるものと信じておりました。残念です。
 
 先輩はわれわれの良き相談相手でした。剣道の強い先輩はたくさんいました。しかし、愛されたのは先輩がいちばんでした。
 「俺は力や技術ではお前たちにだって負けるが、精神では負けておらんぞ」と言っておられました。
 冬の寒い朝も、真先に道場に来て準備をされていました。「皆をどうしたら強くできるか、それが俺の仕事さ」とマネージャ役に徹し、見事に実行されました。
 優秀な成績で○○銀行に入社されましたが、人事部にいるとうかがって、先輩らしいな、きっと裏方を立派に、誰にも負けずにやっておられるのだなと思ったものです。
 
 山岡先輩、いつもしていただくだけでしたが、これからは私たちができることをさせていただきたいと思っています。お子さんのための奨学金を昨夜OB会で決議しました。ご安心ください。
 先輩のご恩に感謝して、謹んでご報告申し上げます。魂の安らからんことを願い奉ります。
 
 人間全てがヒーローではありません。でもそれぞれが良い面をもっています。だから先輩─後輩関係も成り立っているのでしょう。その点を素直に出すとよいでしょう。

(例4)
 
 真田敦子様、あなたの指導を受けた仲間を代表して謹んで追悼の言葉を述べさせていただきます。
 
 あなたは新入りのデザイナー志望者が来ると決まって言いました。「テレビなど見て恰好がいい仕事だと思って来たなら帰んなさいよ。どんなことをしても音をあげないという気持ちがあったらやりなさい」とバサッと言い放つのです。
 またあるときは「努力したからってデザインは評価されないのよ。結果が良くなくちゃだめよ」と徹夜明けでようやく仕上げた仕事をバッサリとやられたこともあります。
 こうも言われました。「自分の趣味で仕事してるんじゃないの。これは商品よ。あんただけ良くてもだめなの」と。
 雑誌のデザインをまかされたときには「きれいに出来てるわね。でもこれじゃ文章は読みにくくてしょうがないわ。勘違いしてない」と。
仕事には厳しい人でした。だからこそ育てていただいたと思っています。
 厳しい面だけではありません。突然「さー、気分転換よ。ケーキ買ってきたのよ。お茶にしよ」と言ってくれたり、「デザイン感覚を磨く」を口実に会社を説得して、映画に連れ出してくれたりもしました。
 「アッコネエは天才だ」などと言うと「お世辞ダーイ嫌い。そんなの努力しない奴が言う言葉」と切り返されました。
 
 あなたに比べるとアマチュアでしかありえませんでしたが、これからはあなたの分まで私たちは頑張ります。あなたの遺してくれた作品、言葉は私たちの力の源です。見守っていてください。
 
 何をこの人から受け継ぐか、ということが明確になっており、それがまた故人の遺された者へのメッセージにもなっています。

(例5)
 
 吉田武部長、営業第2部の一人一人を代表して、哀悼の言葉を述べさせていただきます。
 
 私個人の部長の言葉として強く記憶に残っているのは「酒を飲んでいかんとは言わない。俺も酒は好きだ。でも酒を飲んだら、翌朝は這ってでもきちんと定刻に会社に来い」です。
 部で歓迎会か何かをしたときです。二次会、三次会と盛り上がりました。部長も痛飲しておられました。翌朝、眠い目をこすりながら出社しますと、部長はすでに席に着かれていました。その午後の部会で、部長は静かに「昨夜はご苦労さん。とても楽しかった。だが─」と先程の言葉を申されました。
 「プライベートはプライベート、仕事は仕事だ、ケジメをつけろよ」とも言われました。ダラダラ残業をしていると「仕事なんていつまでもやるもんじゃないぞ。趣味くらい作れよ。いつまでも会社を遊び場にするな」と笑っておっしゃられました。
 でも、部長は典型的な仕事人間でした。「俺は古いから。俺みたいにならないでくれよ。遊ばないと消費者ニーズは自分のこととしてつかめない。これが営業マンとしての俺の限界」とおっしゃっていました。
 部長は猛烈型ではありませんでした。部下が働きやすい環境を上手に作ってくださるタイプでした。皆が自然に目標に向かって努力できるように整えてくださるのです。怒鳴った姿は見たことがありません。でも一言一言がずっしりと心に響くのです。
 
 4月には役員昇格が内定していたとうかがっていました。部員一同でお祝いできることを楽しみにしていたのに残念です。
 吉田部長のご冥福を心からお祈り申し上げます。
 
 上司から叱られたことは印象深いものです。叱る時に上司の姿勢が見えるからです。愛情深い関係が自ずと伝わってきます。